SEP142020

何が正しいのか、

カレーにつけるパンを作れといわれて適当に作ったかっちかちのパンもどき

日曜日、子どもより遅くに起きた。0歳児の◯ちゃんは一緒だが、9歳と4歳の十さんと百さまは、早くから起き出し、寝室の下の階でipadなどをしていたようだ。途中で、「ママー、アイスたべていいー!?」と百さまが聞きにきた。いつもなら朝食も食べてないのにそれは駄目なのだが、今日はいつも善(よし)とされていることと、否(いな)とされていることを、取っ払って生きてみようかなと、布団の中で思い「いいよー」とこた答えた。といえば少しは格好がつくのかもしれないが、ただ「怠惰」という一日を送りたかったのだ。何かを引っ張っていくでもなく、外界に邪魔されず、自分が内が思うがままに一日を過ごしてみたい、そう思った。

 

ご飯は一日3食じゃなくてもいいかもしれない

一日中大人も子どもも好きなことしたいことをして過ごす

 

ボケーとできたが、夕方頃から、身体も心もなんだかしんどくなっていく。今、家族で進めている新たな家の計画を話したり、考えたりしていたが、なんだかipadのせいで疲れた気がする。もう今日は触らない。そう決めた。

17時半に、宿題が終わってなかった十さん以外で散歩に行った。1時間以上歩いた。汗をかいたり、たまたまコロナ期に知って気になっていたカネコアヤノという歌手が大阪城の野外音楽堂でコンサートをしていて、それを聴きながら歩けて良かった。百さまも歩かないだろうと踏んだ一氏はベビーカー2台で行こうと古いのを出してきて行ったのは大正解だった。途中で自ら歩き出した。

しかし◯ちゃんは癇癪なような大泣き。こういう時、私は自分を責めるのと人のせいにする癖みたいのがある。自分の準備不足(寝てる時にかけるもの、ミルク、出発前に離乳食を終えなかったこととか)を責め、そしてそんな準備の責任がないようにしている一氏に腹が立ってきてしまうのだ。穏やかに良い会話が散歩中できていたのに、家に着いた時には、私のその感情がなぜか伝わっているかのように、苛立っているような一氏。家で宿題を終え、30分づつ計りながらゲームをする約束を破ってやっていた十さんはやつあた八つ当たりを含むのか、ひどく怒られていた。宿題を済ませたことは、褒めなくてもいいけど、認めるような態度はしたのだろうか。夕飯は一氏がスーパーで安くなっていたお寿司を買ってきてくれた。準備も片付けもしてくれた。でも◯ちゃんの離乳食をあげて、と頼んだら、一口しか食べないと、途中で放棄し上へ逃げて行った。「にげるなー」と大声で叫んだ私。「十さんの宿題みるんだよー」と言い訳が返ってきた。まあできないことはできないのだな。無理に頼まないし、私も自分ができないことを無理してやるのをやめよう。


正しいとは、[物事のあるべき姿を考え、それにがっちしているさまをいう]と辞書にはある。私はこの一日を使って、正しいとされていることの本当のあるべき姿を体感で味わいながら考えた。いつも正しいと思ってし続けようと苦しみながらも目指していたあるべき姿は、なぜ正しいとされているのか、よく思い知れたと思う。