SEP202020

ゲシュタルト療法を受けた

怒りの碇


昨日今日と一氏は始発からの終電での出張で、3人の子を一人で相手をする、恐ろしい週末であった。はずだった。


 

そう、いつも私はビビっているのである。

自分がちょっと無理かも、難しいな、と思っている時、無意識に緊張している。イライラしてキレてしまう自分が出てきてしまうのではないか。うまくいかないのではないか。本当に無意識にそう思っている。そして一生懸命、そうならないように回避しようと行動している。そして、だいたいいつも回避できずに、噴火が起こってしまうのだ。


 

しかし、昨日今日の私は違ったのだ。

金曜に、念願の「ゲシュタルト療法」を受けてきた。

田房永子さんの「キレる私をやめたくて」を読んでから、私や姉や父みたいな人種の人で、困ったり悩んだりしている人はみーんなこれを受けるといい、受けるべきだと思っていた。藁をもすがる思いで、一時保育ができない◯ちゃん(他人に預けると痙攣を起こしちゃうからね。。。)を無理言って一氏に見てもらって、行ってきた1時間半。


 

少し特徴的なキリっとした顔でおでこの真ん中にホクロがあるおじちゃんが療法士さんだ。以前にやりとりしたメールや電話から、なんだかコミュニケーションの仕方が独特なんだけど、突飛でもなく、無理しないで生きようとしているスタイルをふわ〜と感じた。

実際もそんな感じ。

6、7年前に、精神病院に鬱病と診断された時は、なんだか「診断」って感じだった。しかし、このゲシュタルト療法は、相手から「断」という感覚を全く感じない。まるでそこに療法士さんはいないような感覚さえ覚える。


 

何を悩んでいるのか、自分自身に問い、それに関わる相手が座る座布団を、自分で好きな場所に置く。そして、私は十さんがそこに座っているとして、彼に怒りすぎてしまう自分を、頑張って出した。しかし、そこには十さんはいないし、ましてや怒らせることなどされてないし、そしてそのおじちゃんが見ている、という状況で、どうやったら人に見られたく無いくらいキレてしまう自分が出せるというのか。しかし、そのおじちゃんはたぶんそんな事最初からわかっているのだろう。とても上手な声かけで、ついに泣きながらキレる私を呼び出してくれた。そして、二重がさねだった私の座布団の一枚を、十さんの座布団の横に置いてという。そこには、私は座り直し、さっきまで座っていた場所には、さっきキレていた私が座っていて、その自分と、落ち着いている自分が対話をするのだ。何度も座布団を往復して、自分の中で、答えを考えて話し合っていく。今思えば、問いはおじちゃんが作ってくれていたんだな。


 

おじちゃんは、必要最低限の誘導の言葉と、私と十さんに対する、さり気ない肯定的な言葉のみで、療法を行なっていく。完全にマスターやと思った。描けば描くほど描き上がるわけではないデッサンに似ている。美大受験の時、デッサンのマスターは、最初の何分かは紙に描き出し始めない。モチーフを見つけ、白紙を見つめ、イメージが自分の中で出来上がったら、消して手数が多いわけでは無い鉛筆の動きと、引いていく練り消しの動きで描きあげていく。これは、デッサンを箱椅子に座りすぎてお尻が四角くなった人にしかわからない比喩だと思う。。。


 

これを書いて、ここへアップできずに2週間半ほどたった。

何度か怒り過ぎそうになるが、自己嫌悪するほど怒る事はまだないかな、と思う。おじちゃんは怒りを抑えて出さない事もよくないと言っていたので(違う形で出てきてしまうので)その言葉の上で、あえて怒りを出す、と意識して出していると、排泄のようでスッキリするのだ。そして「あなたに怒ってるんだ」という感じではなく、「私は怒っている」という形で怒っているので、周りの感じ方も違うのではないだろうか。わからんけど。。。


 

おじちゃんのとこでアンカーとして、穏やかな自分の念を込めた簡単なスケッチを手帳へ描いた。怒りがおさまらなさそう、自分ではどうにもできなさそうな時、その絵を見て思い出してください、との事だった。

イメージの力の強さを感じる。